山の上で心が折れそうになった日のこと
趣味の登山で、少し無謀な判断をしてしまったことがありました。
日々の不安やストレスから解放されたくて、どうしても山に行きたかったのです。登山は私にとって、目の前のことに集中することで余計な雑念を手放せる、とても大切な時間です。でもその日は、気持ちのリフレッシュを急ぐあまり、出発が遅くなってしまいました。初心者の浅はかさで「まあ、いけるだろう」と軽く考えてしまったのです。
登り始めると、足が重い。体も重い。息はすぐに上がってしまう。それでも先はまだまだ見えません。ふと気づくと日が傾いてきていました。山では午後3時までに下山を終えるのが暗黙のルールのようなものですが、その時刻はとうに過ぎています。このまま進んで、真っ暗になるまでに自分は無事に下山できるのだろうか——そんな不安が、じわじわと胸を締めつけてきました。
「この辺りから途中で引き返してしまえば、まだ外灯の光で安全に帰れるんじゃないか」「そうしたって誰も責めないし、それが一番安全なんじゃないか」。そんな考えが頭の中をぐるぐると回り始めます。でも、もう引き返すにも中途半端な場所まで来てしまっていました。
その時に「もうちょっとだけ。まだ明るいし、まだ足は動く」と自分を奮い立たせて、一歩、また一歩と歩き続けました。あの時間の長さは、今でも忘れられません。1分、3分、5分、30分……頑張って歩いているのに全然進めていないように感じて、気持ちが押し潰されそうでした。でも、焦って足元が暗い中で無理をして捻挫でもしたら、もう自分の力では降りられなくなってしまいます。怪我のないように、着実に、着実に。そう言い聞かせながら進みました。
「もう無理」は本当の限界なのか、それとも
登山をしっかりやっている方にとっては「諦めたら終わり」というのは当然のことなのだと思います。山は自己責任の世界です。「まだ大丈夫」は「もうダメかもしれない」という慎重な考え方をした方がいい、というのも山の常識として理解しています。
でも、あの日の経験を振り返ると、私は一つ大切なことに気づかされました。
あの時、心が「もう無理」と叫んでいたけれど、実際には足はまだ動いていたのです。本当の限界に達していたのではなく、疲れと不安で心がいっぱいになっていただけだったのかもしれません。
これは登山以外の場面でも同じことが言えるのではないでしょうか。仕事で行き詰まった時、身近な人との関係がうまくいかない時、あるいは自分自身のことで「もう無理かな」と感じた時。それが本当に限界なのか、それとも疲れているだけで回復できるものなのか。その見極めが大切なのだと、五十年以上生きてきた今になって、山が教えてくれました。
一旦立ち止まってみる。少し休んでみる。睡眠をしっかりとる。睡眠不足を抱えたまま判断しない。そうやって心と体を少し落ち着かせてみると、案外「もう無理」ではなかったりするのです。その時は目の前のことでいっぱいだったけれど、観点を変えてみたら「まだ試せることがあるな」と思えたり、「息詰まったと思っていたけれど、別のやり方があるかもしれない」と気づけたり。苦しい状況にいると、考え方まで苦しく狭くなってしまう。それは自然なことなのだと、今は思えます。
諦めなくてよかった、と思えることの幸せ
あの日、山道で絞り出した一歩一歩は、確かに苦しいものでした。もっと早く家を出ればよかったという後悔も、初心者なのに甘く見ていた自分への反省もあります。
でも、あの苦しさの中でも歩き続けたからこそ、「諦めなくてよかった」と思える瞬間が訪れました。そしてその感覚は、日常のさまざまな場面でも、ふとした時に私を支えてくれています。もう無理だと思った時こそ、本当に限界なのか、それとも一旦休めば再び歩き出せるのか、自分に問いかけてみる。その習慣を、山がくれたのだと思います。
あなたは「もう無理」と思った時、どうしましたか? どんなふうに自分と向き合いましたか? もしよかったら、教えていただけたら嬉しいです。

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