私の母のこれまでの人生を通して、農家での子供時代、結婚生活での困難、そして思いもよらない裁判に巻き込まれるまでを紹介します。
母の生い立ちとバブル
私の母は日本海側の県出身で、4人姉妹の長女として育ちました。実家は裕福ではなく、お米を作る農家でした。母の母、つまり私の祖母は働き者でしたが、祖父はそうではありませんでした。農家では6人を養うことは大変で、母は若いうちから都会で働き、収入を実家に送るようになりました。
都会で父と出会い、母は豊かな生活を夢見て父と結婚しました。関西の片田舎に住むことになりましたが、父に騙されたと母はよく話していました。父は不自由な暮らしをさせないと言って、母の心を引きつけていたようですが、期待違いで姑、小姑との折り合いが悪かったようです。
父は勉強嫌いの中卒で、父の兄、つまり私の叔父とビジネスを立ち上げたばかりでした。その会社も、父方の実家の土地を利用していました。父は重役として働きましたが、バブルが弾けたあと父が会社を辞める前に集団訴訟が起こり、17年もの間民事訴訟に巻き込まれていました。父が体を悪くして入院している間に私たち家族は部屋を片付けていて、偶然関係書類を見つけて知ることになりました。訴訟は父の死後も続き、母も裁判に関わることになりました。裁判所への出廷はありませんでしたが、負けたら負うことになる賠償額が大きく、心配が絶えませんでした。原告団が老齢化したことを理由に裁判は終了しました。
母方の親戚関係
結婚後はまさに波乱万丈でした。バブル時代には受注が多く、お金を実家に送ったり自慢したりしていました。このころよく焼肉を食べに連れていってもらった思い出があります。しかし、見栄を張りすぎたせいか、叔母たちとの関係はうまくいきませんでした。月日が経ち母の実家は空き家になりました。穴が開き、獣が入ったり瓦が飛んでくるなど、近所からの苦情もありましたが、母は何ら対応せず問題を先延ばししてしまっていました。
実家の管理は叔母家族に任されていましたが、感謝の気持ちを持って接しなかったため、相続の問題が起こりました。母の妹は2人亡くなってしまいましたが、彼女たちは結婚して子供もいました。親戚づきあいは叔母のみがしていたため、相続の問題は複雑になっていました。母の切り出し方が上手くいかず、話し合いは揉めてしまい、実家の土地を巡る話し合いは決裂しました。
母をはさむと人間関係は悪化する
私自身、相続を進めるために調査を行いました。その過程で、亡くなった母の妹が実家を担保にお金を借りてリフォームしていたことがわかりました。返済は完了していたようですが、抵当権が抹消されていませんでした。私は母とともに母の地元へ行って、関係者と話し合いをしようとしましたが、私と母の関係が悪化し、立ち行かなくなってしまいました。たった1軒、平地にして売却する話し合いをするだけだったのに、叔母は母との話し合いの後キレてしまい私と音信不通になるし、母はこんなに揉める理由が見当たらないと白を切りました。私には母が自分の沽券を保つために都合の悪い話は一切していないように映りました。それどころか、叔母の私への印象まで悪化してしまい、どうしたらこのように関係をこじらせることができるのか逆に闇深いです。
子供の人生は親のためにあるのではない
親だからといって必ずしも子供の幸せを優先するものではない現実があること、子供は親を助けるものだと育てられたから私にもそれを通してくることがあると知りました。私に十分財力があれば経済的に助けることができたかもしれませんが、仕事を辞めて実家へ戻るとなると、その先の私は何のために生きるのか分からなくなっていたでしょう。
家族や親戚といえども、土地の相続になるとコミュニケーションが難しくなることに驚きました。たとえ20年関係を保っていたとしてもです。この経験から、相続は当事者が亡くなる前に適切に進める必要があると感じました。この話が皆さんの参考になれば幸いです。
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