正直さだけでは大人になれない――14歳の私が信じたものと、その後の現実

14歳のとき、私は「正直であること」が何よりも正しいと信じていました。あれから何十年も経った今、あの頃の自分に声をかけるとしたら、何と言うだろう――そんなことをふと考えることがあります。

正直さが褒められた、あの日のこと

中学2年生のとき、定期テストで体育の筆記試験がありました。答案が返ってきたとき、間違っているのに正解になっている箇所があることに気づいたのです。14歳というのは、人間が一番正義感の強い年齢だと言われることがあるそうですが、まさにその通りだったのでしょう。私は迷わず先生に訂正を申し出ました。

驚いたことに、先生は間違いをきちんと減点したあとで、「正直点」としてプラスの点数をつけてくださいました。このことで私は「正直であることは報われるのだ」という確信を得たのだと思います。それは小さな成功体験でしたが、その後の私の価値観に深く根を下ろすことになりました。

ただ、もっとうまく立ち回らないと痛い目に遭うのだということを知るのは、それからそう遠くない未来のことでした。道徳心や正義感が、やや強すぎたのかもしれません。

正直さを咎められるようになった日々

正直さに良い評価をもらった経験があったからこそ、私はずっとそれを大切にしてきました。けれど、大学生になった頃から、正直さだけでは人間関係がうまくいかないと感じる場面が増えていきました。

大学時代の友人に、中学・高校時代の出来事を包み隠さず話したことがあります。クラスメイトからの扱いのこと、仲間外れにされた経験のこと。すると友人は少し困ったような顔をして、「何でも正直に話すのは良くないよ。そんなことをしている人は、あまりいないよ」と言いました。「それは言わない方がいいよ」とも忠告されたように記憶しています。

当時の私にとって、それはかなりの衝撃でした。正直であることが良いことだと信じてきたのに、それを咎められるなんて思ってもみなかったのです。

社会人になると、なおのことでした。仕事でうまくいかなかったことを正直に上司に報告しても、良い結果にはつながりません。冷静に考えれば当たり前です。上司は学校の先生ではないのですから。極端なことを言えば、うまくいかなかった話を聞きたがる上司などいないわけで、自分の成長や成果について話すべき場面の方がずっと多いのです。

親や教師は、子どもに対して正直さや素直さを重視し、そうなることを望みます。しかし、現実の社会で自分の足で立って生きていくには、すべてを正直に言う必要はありませんし、正直であることが必ずしも正解とは限りません。この当たり前のことに気づくまでに、私はずいぶん時間がかかりました。

心と体がバラバラになりそうだった頃を越えて

正直な人間でありたいという気持ちと、現実社会での処世術の間で、正義心との葛藤が生じることは何度もありました。心と体がバラバラになりそうな時期もあって本当につらかったです。自分が大切にしてきた価値観を否定されるような感覚は、思った以上に自分を追い詰めるものでした。

けれど、損得を考慮した理屈がわかってくると、自分の行動が他人にどう映るかを考えることの大切さが見えてきます。自分が悪く映らないようにするというと、ずるいことのように聞こえるかもしれません。でもそうではなくて、自分の中にいろいろな面を持ちながら、状況や相手に合わせて適切に対処していくということなのだと、今では思っています。

正直さを捨てる必要はありません。ただ、それだけでは足りないのです。状況を見極める力、相手に合わせたコミュニケーション、そして自分自身を守るための判断力。大人になる過程でこれらを少しずつ身につけていくことが、結果として自分を成長させてくれるのだと、50歳を過ぎた今になってようやく実感しています。

正直さの「使いどころ」を意識すること。それは嘘をつくこととは違います。自分自身を大切にしながら、上手に世の中を泳いでいくための知恵なのだと思います。

皆さんは、正直さと処世術の間で揺れた経験はありますか。あの頃の自分に今の自分が声をかけるとしたら、どんな言葉を選びますか。よかったら、少し立ち止まって考えてみてくださいね。今日もお読みいただき、ありがとうございました。

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